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コレクションについて [雑感]

草創期ひとつ、ふたつ、、と「つ」で数えられるうちは
自分がコレクションをしている、っていう自覚はありません。
「とう」で、とうとう、とは数え歌じゃありませんが
「これを集める自分」に気が付き始めます。

発展期面白くなってきて、参考文献や、同好の士を探し始めます。
いまではインターネットなど手軽に情報収集できますが
それまでは本屋さんで趣味の雑誌を手にしたり
専門店に足を運んだりしました。

そして、出会う方々に「おたく、これやってるの?」
などと会話をするので「おたく」に、、、。

同好の士間での会話では年齢の上下、社会的地位の上下は
ほぼ何の意味もなくて、「コレクション暦」「コレクション内容」
(数はあまり比較対照にならなかったように思います)
「どんなレア物をもってるか」「薀蓄話を語れるか」はたまた
コレクションの「供給源」になってくれるかどうか
こそが重要で、そこでは相手を呼ぶのにふさわしい言葉が無く
「おたく」を頻繁に使うように。

倦怠期なにがどうでも「壁」にぶちあたります。かならず。
たとえば
欲しいものが多すぎる。
(バリエーションがありすぎ全部あつめられないことに気がつく)
昨今の切手など。

欲しいものはすでに他人にわたっている。
著名な絵画や、彫刻、高級品、限定品など。

自分でも馬鹿馬鹿しくなる。
(初期から周囲の人には蔑まされているのですが!)

失敗を重ねて、手に入れ損ねたり、すでに持っているのに大枚をはたいたり、、。
買える立場だったのに自らスルーして、後で後悔って言うのがなによりも辛いです、、、。
などなどです。

円熟期何もしていなくても、無意識状態で「それ」が目に入るようになります。
八百屋でミニカーを見つけたり
まったく関係ない新聞の記事から
存在を察知したり、嗅覚が働いたりして
感覚が鋭くなります。
どれほど他のことに集中していても(熟睡していても)
「それ」のために、感覚器官のどこかが反応します。
「迷ったら買え」が座右の銘に。


終末期終わり。ということではありません。
数も増え、訳がわからなくなってくるころです。

「自分のものじゃない」というのに気が付くのです。
だれかにきちんと引き継がないと、、、。
その意味では 
引継期 とでも言った方がいいかもしれません。

数が増えたあなたのコレクションは「その数ゆえに」また違う意味を
持つことに気が付くのです。

私は途中の「各期」を順調に一歩一歩通過したと言えませんが
「自分ひとりで独り占めしてはだめだ」
「箱にいれて埃をかぶらせておくだけではだめだ」
ということに気がつきました。

ミニカーを飾ることで、今回のMONOMUでも
すばらしい方々と出会い、語らうことができました。

大きな人の輪ができました。

そして自分のコレクションの原点を見直す契機にもなりました。
いらない、というより「自分よりももっとふさわしい方がいる」ので
その方にお譲りする傍流のコレクションも見つかりました。

「あつめることって、辛かったと思ったけど
飾って人様に見ていただくって、本当に大変ですよね」
一緒にピンズを飾ってくださった中島さんの言葉です。
「一人だったら、心が折れていたよね」と。

今日は最良であり、今は無二の好機。
物はこれを生かす人にあつまる。
自分を尊び(見つめなおし、受け入れ)他の人にもおよぼしてゆく。
原点を忘れず、そしてまた未来への引継をきちんと。

いろいろなことに気づきがあるのです。
ね。

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