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1・17のこと [雑感]

具体的に書きます。

「阪神」のときに感じたこと。

まず仕事について。

それまで家族みんなに言っていました。
「日本のコンクリートの建物は
絶対に倒壊しないから地震の時には建物内に居ること」
って。

そしたら
根こそぎ倒れた雑居ビルはもちろん
丁寧に施工されたはずの公共的な建物
神戸の病院 市役所 郵便局。
倒れはしませんでしたが、上部の階がつぶれて
何人もの方が犠牲になりました。

高速道路。
柱がポッキリ折れ、完全に倒壊しました。

そしてその後の処理。
原因の検証などもないまま
うやむやのうちに「災害復旧」の名の下に
「よってたかって」無かったことにされてしまいました。

解体工事屋さんたちの石綿による被害もありました。

被災建物の応急危険度判定士の資格はありましたが
派遣要請は公務員だけに来て
私には来ませんでした。

こんなんで良いのだろうか??と。

そして
所属していた団体のことです。
青年会議所。

1月といえば年度のスタート時期です。
その年は大阪の伊丹青年会議所から出向した人が
日本青年会議所の会頭でした。
彼自身も被災者。
家族が犠牲に。

だが彼は会頭を続けました。

苦渋の決断だったことでしょう。
いまになったら彼の気持ちがちょっぴりわかります。
わかりますが、

「英知と勇気と情熱をもって
明るい豊かな未来を築きあげよう!」がスローガン。
飲みながら戯れごとでいうのが
「お金と時間と家族の犠牲」

いつだって「改革」「革新」を旗印にしているくせに

こんなときでさえ「家族を犠牲」にしないといけないのか??
って。

青年会議所はあのとき「終わった」。
私はそう思ってしまいました。

会頭に直訴する手紙を書いて送りましたっけ。
「やりようはいくらでもあるでしょう」って。
「あなたは休んで家族のそばにいたらいかがですか?」って。

若くて青い私でした。
もちろん返事なんか来ません。

しかし「会頭」ともなると
多くのしがらみが、、、。
政治的なことも、、、。まったく当時は思いも及びません。

神戸は
その前年 青年会議所の世界大会を主管した街です。

私も行きました。
世界から若い経営者たちが集まりました。
当時の世界の会頭は横浜青年会議所の人です。

あの街があんなことになるなんて。

世界中の青年会議所メンバーに
もっともっと有機的に、
もっともっと斬新なかたちで
情報発信できたはずなんです。

あのころの青年会議所の力をもってすれば。

そして全国から京都に集まる「京都会議」が中止になっただけで
その年の青年会議所活動は始まります。

駅前で募金箱を持つ者。
救援物資を持って現地へ駆けつける者。
大勢いましたけれど

そのほかの団体と何ら違いは見出せませんでした。

「会頭が被災者だ」と言うこと意外は。
そしてそれは外の人にはわからずに。

いまだって当時のこんなことを覚えているのは
私くらいのものじゃないでしょうか?

いろいろ偉そうに書きましたが
結局
当時の私は現地にも赴けなかったし
街頭募金の列にも立てなかったのです。

ほんの少し義援金を寄付しただけ。

昨日も書いたとおり
「体が固まり 足がすくんで」
何も出来なかったのです。

本当に申し訳ありませんでした。

私は当時33歳でした。
そして3月。
オウム事件が起こるのです。









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